薬剤師 転職がリニューアルしました
あるいは、父の死がよほどショックで、それどころの騒ぎではなかったのかもしれない。
この事件は、後に伯父の日記を送ってくれたことから確認できたことである。
こうして、母は私たちが1人前になるまで、女の細腕で子供3人を育てていかなければならなくなった(また、あとで聞いた話だが、父が大学卒業まで面倒を見た3人の伯父の子供が、それなりの援助をしてくれたようである)。
その頃は、私たちの家族は豊島区の東長崎7丁目というところに住んでいた。
そこは豊島区アルバイトの仕入れをしたアイスキャンデー屋があったと新宿区の境界付近にある町で、私にとっては、第2の故郷ともいうべきところになるのだろう。
母は、この家で、若い頃に身につけていた編物の技術を活かして生計を立てていくことになった。
私か憶えているのは、母が、朝から晩まで編物の内職をしていたことだ。
戦後間もない物資不足の時代だったから、編んでほしいという注文が、ご近所ばかりでなく、けっこう遠いところから引きも切らないのである。
それで、母はほとんど、その仕事をつづけていて、必ず一着は編み上げていた。
というより、母が娘時代から編物をしていたときの編み棒が、今も残っている。
もちろん戦前の一着編み上げるまでは寝ないと決めていたのかもしれない。
もちろん、子供の私には、それで印いったいいくらの代金を受け取っていたのかは知るはずもなかったのだが(50年以上経った今でも、それについてはまったく知らない)。
実際、母の編むセーターや帽子、チヤンチャンコなどは、注文してくれた人にずいぶん喜ばれていたようである。
やがて、その技術は評判となり、母は自宅に編物教室を開いて、近所の奥さんやお嬢さんたちに教えるようになっていた。
5月の節句のお幟や3月の節句のお雛様などを、リヤカーに乗せて母と緒に新宿の伊勢丹に売りに行ったこともあった。
戦前から家にあったものだが、戦争中は地ドにしまっていたため、空襲の被害を受けなかったのである。
物不足の時代だったので、そんな中古心品でも当時のデパートは買ってくれていたのだ。
やがて私も、通っていたK進第2小学校を卒業して、自宅から数10メートル離れた豊島区立長崎中学校に入学することになった。
戦後になって学制が変わり、昭和24年入学の新制中学の中学生になったというわけである。
私は生まれつき商売が好きで、それでいつしか商人としての道を歩みはじめることになったのだが、その出発点となったときこそ、まさしく、この長崎中学に通っていた十代前半の頃のことと言えるだろう。
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